白門ヘラルド年表

1955年夏 中央大学3年生で「英語学会」(ESS)のメンバーだった島田直治、山田和夫が東京・新橋の居酒屋で英字紙・朝日イブニング・ニュースのベテラン記者中島申祥氏と出会う。中島氏は母校で英字新聞を発刊したいとの二人の情熱を聞き、アドバイザーとして協力を約束する。(同氏は9号=1958年1月=に「白門ヘラルド開花のいきさつ」と題する一文を寄せ、当時の二人との「出会い」に触れている)
1956年11月1日 「白門ヘラルド」創刊。「英語学会」の有志が発刊に参画。創刊号「奥付け」には「中央大学英語学会発行」と記され、以下の役割分担が載っている。
名誉会長:内片孫一教授、編集主幹:島田直治、編集局長:山田和夫、編集長:大河原祥勲、コピーリーダー:桑田泰久、アドバイザー:吉田勉、今泉周治、監査役:市川良一氏。創刊号3,000部が印刷所(新橋駅近くの高架鉄道下にあった「東京ニュース」)から駿河台校舎半地下の「英語学会」部室に届いた際、部員のひとりが1面見出しのミススペリングに気付いた。林頼三郎総長が創刊号に寄せた祝辞の見出し中のcongratulationの“l”が“r”となっていた。刷り直すには予算が足りない。見過ごすには致命的なエラーだ。島田の指示で部員が学校近辺の八百屋からさつま芋を買ってきて、“l”の印を作り、手分けして“r”の上に押して修正した。だが、出来栄えが芳しくなく、数人のメンバーが印刷所へ戻り、正式に修正し1,000部を追加印刷した。創刊号の価格は10円。ちなみに、当時校門近くの喫茶店でコーヒー一杯が40円、円の固定レートは1ドル360円だった。英字新聞発刊の主たる動機は、国際相互理解を深めたい、そのために学生の英語理解力増進に役立ちたいとのESS部員の願望だった。創刊号は論説で中央大学の前身「英吉利法律学校」が全講義を英語で行っていたことに触れたあと、「異なる国々、文化間の相互理解を促進する言語として英語に優るものはない」と指摘し「創設者の精神を蘇らせ全校に浸透させることはけっして徒労ではない」と述べている。
1957年4月15日 3号で日本の伝統文化を紹介する連載「Japanese Classics」を開始。執筆者は秋本清。創刊号で「能」を紹介したのが連載のきっかけとなった。秋本は卒業まで「歌舞伎」、「着物」、「生け花」などを15回にわたり紹介した。その後、飛山将が引き継ぎ「日本庭園」、「浮世絵」、「日本文学」など21回で連載を終了した(23号=1960年1月)。このほかの連載では、創刊号からスタートした外国映画紹介「On the Screen」(第一回はHigh Society=邦題「上流社会」、ビング・クロスビー、グレース・ケリー、フランク・シナトラ共演)、3号で始まった「Across the Pacific Ocean」(白門ヘラルドが紙面交換した米国の大学新聞の記事紹介)がある。
1957年12月16日 8号で中大の教授を紹介する「教授プロフィル」(Professor’s Profile)の連載開始。(連載はいきなり「第2回」から始まっている。創刊1周年特集号第7号=1957年11月=で5学部の教授、助教授、講師105名を紹介しているが、これを「第1回」と数えたためと思われる。)
1959年5月29日 17号で「Letters to the Editor」(読者からの投稿)連載開始。学校内外の諸問題に対する学生の意見を紹介するのが目的。
1959年7月1日 毎年の「全校体育祭」に焦点を当てた8ページ特集号(18号)を発行。1面記事は「会場の国立競技場を訪れたスカルノ・インドネシア大統領が1万人の学生たちから熱烈歓迎を受けた」と記している。
1959年9月25日 19号の論説で日米安保条約改正問題を取り上げる。全学連が反対運動の一環として「授業放棄」を呼びかけことに触れ、「授業ボイコットにより学生運動がいかばかり前進するか疑問を持たざるを得ない」と批判的な立場を取っている。
1959年11月6日 創刊3周年の20号は論説「白門ヘラルドの方針」を取り上げた。「中大の学生生活の様子を外国に伝え、外国学生の様子を読者に伝えることで国際相互理解を深め」「日本と外国の文化的、学術的関係を促進するため中大と外国大学の教授、学生交換の実現を図るべき」と論じている。
1960年4月9日 24号で「今月のホープ」(中大の有望スポーツ選手紹介)をスタート。当時、中大の各スポーツ部は常に全国大会で上位を占めていた。連載はローマ五輪の年を迎え、代表団入りしそうな中大の選手を紹介するのが目的。同号は「学生の道徳観」と題する論説で“喫煙問題”を取り上げ、「私たちはなぜ煙っぽい教室で授業を受けなければならないのか」と問うている。
1960年11月16日 30号3面で「教授による意見発表を歓迎する」記事を掲載、当時はまだ学者による意見表明があまり一般的でなかったことをうかがわせている。白門ヘラルドはとくに中大教授の投稿記事掲載に力を入れた。数回にわたり寄稿いただいた経済学部の武藤光朗教授は先駆者の一人だった。
1961年5月17日 白門ヘラルド5周年で6ページ特集の33号を発行。論説で英字紙の発行について「資金難」、「英語で記事を書く難しさ」に触れたあと、発行を継続する目的について「広義では国際間の誤解を取り除くことで真の民主主義と世界平和に資すること」「狭義では英語の理解を深めることに役立つこと」と述べている。内片孫一会長は「白門ヘラルドと歩んだ5年間」と題する一文を寄せている。34号(1961年6月23日)は、5周年を機に学校がアドバイザーの中島申祥氏を特別表彰したこと、36号(1961年10月18日)は5周年を祝う学内映画祭で米国映画Teacher’s Pet「邦題=先生のお気に入り」(ベテランジャーナリストによる新米女性記者の訓練をコメディー風に描いたもの)を上映したと伝えている。
1961年11月23日 ライシャワー米駐日大使が中大で「アジアにおける日本」と題して講演。白門ヘラルドは8ページの特集号で2ページを割き講演の全文を掲載した。編集長鈴木幸雄は当時を振り返り、同大使の講演が白門ヘラルドのESSからの独立のきっかけになったと述懐している。鈴木は大使から届いた講演全文掲載への礼状を示し柴田甲子郎総長に新聞独立の重要性を説いた。諸先輩の事前の努力も手伝ってこの働きかけが功を奏し、ヘラルドは1963年3月23日付けで「英字新聞学会」として公認を得た。
1962年4月23日 40号から時事問題の解説「ニュースの焦点」連載開始。「(沖縄返還を前に)沖縄の行方」に始まり「米国の核実験」、「ラオス危機と日本」と続いた。
1962年6月21日 「憲法改正問題」特集8ページ(42号)を発行。「反対」、「賛成」、「条件付き容認」意見を外部の識者による投稿で紹介。
1962年9月13日 43号は米シカゴ大学の学生新聞編集者から寄せられた「白門ヘラルドは米国内の大学新聞のベストに匹敵する」との投稿を掲載。
1963年4月23日 白門ヘラルドが新年度に「英字新聞学会」(The English Newspaper Association of Chuo University) としてESSから分離独立。独立後の最初の発行は48号。同年10月25日付け52号の論説は「独立を迎え、使命達成のためさらに努力を続ける決意である」と記している。
1963年6月22日 50号を祝し12ページの特集(定価20円)を発行。升本喜兵衛学長、ライシャワー米大使が祝辞を寄せた。内外の識者による寄稿13本を掲載。「世界平和をどう築くか」と題する特集には英国のノーベル賞受賞者バートランド・ラッセル卿、フィリップ・ノエルベーカー氏、ボイド・オーア卿のほか蝋山政道前お茶の水女子大学長、デービッド・リースマン・ハーバード大学教授、米国のノーベル賞受賞者ライナス・ポーリン博士らが寄稿した。日本人寄稿者が蝋山氏だけだったことについて、編集長中楯健二は後年「このことで分かったのは欧米の学者達は次の世代の若者に期待するところが大きく、学生の真面目な取り組みには真剣に応えてくれると言うことであった。無視して返事一つくれない日本の学者とは、その対応に雲泥の差があった」と述べている。
1963年11月23日 53号は一面でUSIS電による「ケネディー大統領暗殺」を伝え、2面に「JFKの死を悼む」論説を掲載。
1964年4月18日 56号から定価を20円に引き上げ。一面で「70歳定年制が施行され、教授73名が引退」と伝え、2面で「構内の女性フォト」シリーズを開始(1回目は升本学長室秘書の遠藤信子さん)。57号(同年5月28日)から「大学新聞のコメント紹介」(各大学の邦字紙から時事問題についての評論を取り上げる)をスタート。
1964年6月27日 58号で東京五輪特集の8ページ発行。東竜太郎東京都知事、ブランデージ国際オリンピック委員会会長など内外5名からの寄稿を掲載。
1965年10月8日 創立80周年特集20ページ65号を発行。佐藤栄作首相、中村梅吉文相、ライシャワー米大使の祝辞を載せたほか、財界、政界、法曹界、スポーツで活躍する中大OBを紹介。学内5教授からの寄稿、バートランド・ラッセル卿、ボイド・オーア卿、デービッド・リースマン教授からの特別寄稿を掲載。
1966年10月21日 白門ヘラルド創刊10周年特集71号(12-ページ)を発行、身障者問題を取り上げる。身障者の姿を伝える写真のほか、海外での対応状況を紹介、「日本の社会福祉はなぜかくも冷血なのか」と題する作家水上勉氏の寄稿を載せている。
さらに白門ヘラルドは、10周年事業として過去に掲載した寄稿文をまとめた「エッセー・記事集」(A Collection of Essarys & Articles)を刊行した。(本DVD作成にあたり散逸した白門ヘラルドのバックナンバー収集にあたったOBの一人星野 貴により、この本が米カリフォルニア州州立図書館に所蔵されていることが確認された。)
1966年12月17日 8号(1957年12月17日)以来続いていた「教授プロフィル」(Professor’s Profile)が72号(61回)で終了。
1967年4月27日 73号で「白門ヘラルドは定年のためアドバイザー役を退任された片山金章教授の後任として伊豆野正教授を迎えた」と告示。今号から「教授プロフィル」に次ぐ最長連載「Across the Pacific Ocean」を「Foreign Students’ Views」とタイトルを変えて再スタート。
1967年10月4日 76号で「英字新聞学会の白門祭初参加」を告示。展示のテーマは「Vietnam War and Our Position」、77号(同年11月30日)で「ベトナム戦争に関する学内世論調査」結果を報じた。
●中大における1968年以降の学園紛争 1960年代に安保闘争、新設の「学生会館」をめぐる自主管理闘争、学費値上げに端を発した学生によるストライキが続き、状況は全般的に学生側に有利に展開した。大学当局はこれに対抗し、教授会の上部組織として「常置委員会」を設けた。学生側はこれを「大学自治」を脅かすものと受けとめ、「全学中央闘争委員会(全中闘)」を結成した。「昼間部自治会」とサークル活動を担当する「学友会」が、闘争に関する権限を全中闘に集約したため、事態は大学理事会と全中闘の全面対決に発展した。1969年、学生側は全学ストライキに入り、校舎をバリケード封鎖した。大学当局は警察機動隊を導入してこれを排除、逆に校舎をロックアウトしたため授業が全面停止となった。約半年後、授業は再開したが、この間に文化団体連盟(文連)所属のクラブ活動は壊滅状態に陥った。白門ヘラルドも編集・発行活動に大きな影響を受けた。部室の封鎖期間中は、アドバイザーにお茶ノ水や新宿の喫茶店で原稿のコピーリードを依頼したり、他大学の英字新聞部部室を借りて編集作業を続けた。学校のロックアウト解除後、中大のみならず全国規模で学生組織の派閥間抗争が続いたが、時の流れとともにやがて衰退していった。
だが中大の場合、1978年4月の多摩キャンパス移転を前に学生運動が再び活発化した。学生たちの不満はおもに移転後のクラブ部室確保への不安、下宿、通学に関する情報不足、5学部のうち唯一都心に残る理工学部のクラブ活動継続に関する不安に向けられた。
1968年5月24日 学園紛争が世界的規模で激化。79号は一面で「授業料引き上げに反対する学生の35日間におよぶストの混乱の責任を取り全経営陣が辞任」、「学生運動内部の派閥闘争で100人の負傷者」を伝え、2面で「自由主義、共産主義国のいずれでも学生運動激化」3面で「岐路に立つ日本の私立大学」を取り上げた。80号(同年6月28日)は1面で「全学連、駿河台地区を占拠」「学園紛争たけなわ」を伝え、論説で「派閥闘争」を論じた。さらに2面で「各大学で学生の政治運動荒れ狂う」と題する長文の記事を掲載。白門ヘラルド定価を79号から10円に戻す。
1968年11月19日 82号で「国際反戦デー」特集の8ページ建て発行。6面に「アメリカへのアピール」と題するバートランド・ラッセル卿の寄稿、7面に「安保協定延長をめぐり意見対立」と題する中島申祥氏(白門ヘラルド顧問)の寄稿を掲載。
1969年3月13日 学園紛争ますます激化。臨時発行された2ページの84号は一面で「中大当局、学校封鎖で機動隊導入」、「学内集会で紛糾、学生222名を逮捕」、「京大、警官監視下で入試実施」、「全中闘(全中大学生闘争会議)、入試監視を決定」などを伝えた。
1969年5月19日 中大学園紛争4カ月目に入る。白門ヘラルド85号は「大学当局、学生会館を除き学校封鎖の解除を決定」と伝えたが、後日、練馬運動場で開かれた学生との話し合いで合意がえられなかったため封鎖を継続することにした、との別立ての記事を載せ、学内の混乱ぶりを窺わせている。6ページ立ての4面に「現代の大学はどうあるべきか」と題する解説。白門ヘラルド定価、再び20円に改定。
1976年9月6日 大学紛争の長期化が学生の課外活動に影響。英字新聞学会も例外たりえなかった。白門ヘラルドは96号(1974年7月15日)から97号(1976年9月6日)まで2年2カ月発行を中断。新聞発行への影響は、それ以前の1969年末から目立ち始めた。年間の発行回数は1969年4回から1970年には3回に、1971-72年には各2回に、1973-74には各1回に減った。中断後に発行の97号から価格が20円から50円に引き上げられ、部の財政難を窺わせた。
1978年6月 中大、多摩新校舎に移転(同年4月)。99号(6ページ建て)は一面で「理工学部を除く4学部が新年度から八王子市の多摩校舎に移転した」と伝え、2-3面で新校舎の写真を特集している。
1978年12月15日 白門祭、10年ぶりに復活。8ページ建て100号は「学園紛争で中断していた白門祭が10年ぶりに復活した」と伝えた。
1980年7月7日 103号は一面で「中大駿河台キャンパスの閉校式が3月22日に行われた」と伝えた。論説はソ連のアフガン侵攻に抗議して日本オリンピック委員会が下したモスクワ五輪不参加決定を取り上げている。
1981年7月3日 107号は二面に、高等学校の日本史教科書の検定をめぐり国を相手に訴訟を起こした家永三郎教授とのインタビュー記事を掲載した。
1981年11月20日 白門ヘラルド、創刊25周年記念特集号(108号6ページ建て)を発行。編集長皆川敏行は「25周年に当たり」と題する記事で、ヘラルドの年間発行回数が「創刊から15年間の6-8回から2-3回に減った」ことに触れ、その第一の理由として「1970年頃の全国的な学園紛争」を、ついで「学生の英語習得への熱意の欠如」を挙げている。記事は「最近、4年ぶりに再開された全国学生英字新聞協会の会合の参加校がわずか7校だった(当初メンバー校の半数以下)」ことから、「現在の(学生英字新聞が低調な)状況は多かれ少なかれ他の大学に共通の現象のようだ」と述べている。皆川は「中大英字新聞学会の使命はわれわれの輝かしい新聞を終わらせないこと」と強調、「われわれの目的は先輩に追いつき追い越すこと」と決意を新たにしている。
1981年12月16日 109号は一面で「中大の司法試験合格者が58名に激減したことに法学部関係者は衝撃を受けている」と報じた。また、五面の「目覚めよ女性」と題する記事で「雇用機会均等法」を目指す女性団体の活動ぶりを特集した。
1982年7月7日 111号は5月に開催された「平和のための東京行動」に合わせ、日本の反核運動を特集した。
1983年11月30日 創刊以来アドバイザーとして白門ヘラルドの発展に尽くされた中島申祥氏逝去。享年75歳。中島氏は戦前の同盟通信社で英文記者として活躍された後、聯合司令部による同社解体と同時にJapan Advertiser (The Japan Timesの前身)に入社、のちにThe Tokyo Evening News(The Asahi Evening Newsに改称=The International Herald Tribune/The Asahi Shimbunの前身)に移り定年まで同社に在籍された。白門ヘラルド創刊の1956年から1981年までアドバイザーとして学生の書いた拙い英文の手直しをお引き受けいただいた(学園紛争激化の1970年から約10年間中断)。115号(1983年11月)で死亡記事を執筆したヘラルド元編集長飛山 将は「新聞であれ雑誌であれ、記事になった言葉はつねに注視され続け、誤りが看過されることはない。鋭い読者の目はたえず誤りを見つけ出す」との中島氏の言葉を引用している。
1984年4月1日 部員不足に悩む白門ヘラルド。116号は一面で新入生に英字新聞学会への加入を呼びかける異例の記事を載せ、「英語の実力を上げ世界を見る機会を得たいと望むものはだれでも歓迎」と呼びかけている。前後に発行された号には「募集広告」がたびたび見られ、ヘラルドが恒常的な部員不足に直面していたことを窺わせる。
1984年7月4日 中大で学ぶ外国人留学生の増加。117号で留学生を紹介するコラムを新設。第1回目でオランダ・ユトレヒト出身の女子学生デリアン・ベレンディーナさんを取り上げている。
1986年1月20日 中大創立100周年。120号1面トップ記事は前年11月13日に行われた記念式典を取り上げたが、「学生はほんとうに祝賀気分か?」と問いかけている。119号(1985年5月)は川添利幸学長との単独会見記事を載せた。学長はこの中で「中大は100周年記念事業の一環として、とくにアジア諸国との交流を促進する必要がある」と述べている。
1987年2月6日 白門ヘラルド創刊30周年。123号は「学生の生活感」と題する論説で日本の過去の高度経済成長がもたらした「物質的豊かさ」に触れ、「われわれ学生はものが溢れる今日の安定した生活に慣れ切っているが、現状を分析し、そうした気楽な態度を考え直すことを忘れてはならない」と論じている。
1987年4月1日 白門ヘラルド、タブロイドからマガジンスタイルに変更。雑誌形式は試験的な試みとして始まったが、1997年11月の149号でヘラルドの発行が中断するまで定着した。部員は前年の1986年に創刊30周年記念号用としてインタビューに基づく特集記事を数本用意したが、おもに紙面の制約で掲載しきれない記事が残った。最初のマガジンスタイルとなった124号冒頭で編集長村瀬一志はこの間のいきさつについて次のように書いている。「後日、残った記事をまとめて掲載するには新聞形式よりマガジン形式の方がやり易いと思いつきました。その方が記事の意図するメッセージをより簡潔に伝えられると考えたからです。」今にして思えば、このスタイル変更は当時進行中だった価値観の多様化を反映したものと言えよう。学生は学内の日々の出来事、行事より社会で起こる様々な事象により深い関心を持つようになっていた。事実、白門ヘラルドが後の号で取り上げた問題は「ペットボトル」(125号)、「高齢化社会」(126号)、「核エネルギー」「テレビジャーナリズム」(128号)から「酸性雨」(129号)、「精神障害」(131号)、「第3世界の孤児たち」(134号)、「血液型と性格」(136号)、「エイズ」(129号)、「骨髄バンク」(141号)と多岐にわたっている。
1995年11月3日 白門ヘラルド創刊40周年。20ページの146号記念号には会長里麻静夫教授のほか他大学(青山学院、成城、上智、東洋英和女学院)の英字紙編集長が祝辞を寄せた。アドバイザー飛山 将氏の祝辞は編集作業の手違いで記念号には載らず、別紙印刷で挿入された。「40歳を迎えたヘラルドへのメッセージは継続」と題する祝辞は「この間ヘラルド編集長の多くと接してきた。皆さんgood boys and girlsだった。ヘラルドがまたひとつの節目を迎えるに当たり、彼らに伝えてきたことを繰り返したい。継続こそ価値があると。」
1997年11月 白門ヘラルド149号をもって発行活動を中断。英字新聞学会は1999年3月、前年の活動に触れた「活動報告書」を大学学友会に提出した。その後、年次活動報告書の提出がなかったため、学友会中央委員会は2001年4月1日、同学会を「廃止対象部会」として公示した。この取り扱いに対する異議申し立て可能な180日間が2001年9月27日に終了。この間異議申し立てがなく、学友会は同年10月23日、英字新聞学会の廃部を公示した。
最後に発行された149号は12ページ建て、日英両文の記事が入り混じった編集となっている。題字は「白門ヘラルド」から「白門」が消え単にHERALDとなっている。編集長大熊隆宏は作業を振り返り「(部員が)喜怒哀楽を露わにし、互いにぶつかり合った数カ月が非常に懐かしく感じられる。今まで部外に委託せざるを得なかった(レイアウト、印刷)作業も、コンピューター導入により、すべて自分たちの手でやり通すことができた」と記している。