林 頼三郎 | |
柴田 甲子郎 | |
片山 金章 | |
升本 喜兵衛 | |
森 清 | |
井上 達雄 | |
五鬼上 堅盤 | |
守屋 善輝 | |
戸田 修三 | |
金子 文六 | |
桑田 三郎 | |
原田 鋼 | |
島崎 昌 | |
川口 弘 | |
川添 利幸 | |
永井 和之 |
創刊号/1957年11月―55号/1964年1月 | 内片 孫一 教授 |
56号/1964年4月―100号/1978年12月 | 塚本 重頼 教授 |
101号/1979年6月―124号/1987年4月 | 深沢 俊 教授 |
125号/1988年2月―138号/1993年5月 | 里麻 静夫 助教授 |
139号/1993年7月―141号/1994年9月 | 三枝 幸雄 教授 |
142号/1994年10月―149号/1997年4月 | 里麻 静夫 教授 |
創刊号/1957年11月―84号/1969年3月 | 市川 良一 |
85号/1969年5月 | 以降、監査役廃止 |
創刊号/1956年11月 | 吉田 勉 | 今泉 周治 |
2号/1956年12月―3号/1957年4月 | 渡辺 幸吉 教授 | 中島 申祥 (Asahi Evening News) |
上津原 時雄 (The Japan Times) | ||
4号/1957年6月―55号/1964年1月 | 渡辺 幸吉 教授 | 中島 申祥 (Asahi Evening News) |
56号/1964年4月―72号/1966年12月 | 片山 金章 教授 | 中島 申祥 (Asahi Evening News) |
73号/1967年4月―87号/1969年11月 | 伊津野 正 教授 | 中島 申祥 (Asahi Evening News) |
88号/1970年2月―96号/1974年4月 | アドバイザーなし | |
97号/1976年9月 | 大島 誠 教授 | 桃沢 力 教授 |
98号/1977年7月 | 大島 誠 教授 | |
99号/1978年6月―100号/1978年12月 | R.E.フリーマン 助教授 | 林田 博光 講師 |
101号/1979年6月 | R.E.フリーマン 助教授 | 林田 博光 助教授 |
102号/1980年4月―106号1981年5月 | 飛山 将 (共同通信社) | |
107号/1981年7月 | 中島 申祥 (Asahi Evening News) | 飛山 将 (共同通信社) |
108号/1981年11月―109号/1981年12月 | 飛山 将 (共同通信社) | 石川 純一 (時事通信社) |
110号/1982年5月10日―111号/1982年7月7日 | 飛山 将 (共同通信社) | 石川 純一 (時事通信社) |
Richard Freeman | Derek Mussarella | |
112号/1982年11月10日―115号/1983年11月30日 | 飛山 将 (共同通信社) | 石川 純一 (時事通信社) |
116号/1984年4月1日 | 吉川 道夫 教授 | Paul Migliorato |
飛山 将 (共同通信社) | ||
117号/1984年7月4日―118号/1984年10月29日 | 飛山 将 (共同通信社) | Paul Migliorato |
Mark Weeks | ||
119号/1985年5月20日 | 飛山 将 (共同通信社) | Paul Migliorato |
120号/1986年1月20日―147号/1996年4月1日 | 飛山 将 (共同通信社) | |
148号/1997年4月1日―149号/1997年11月 | アドバイザーなし |
創刊号(1956年11月)―2号(1956年12月) | 大河原 祥勲 |
創刊号では島田 直治が編集主幹(Executive Editor)、創刊号から2号まで山田 和夫が編集局長(Managing Editor)、山田 和夫は4号(1957年6月)―9号(1958年1月)で編集主幹(Executive Editor) | |
3号(1957年4月)―4号(1957年6月) | 秋本 清 |
5号(1957年7月)―7号(1957年11月) | 秋本 清、飛山 将 |
8号(1957年12月)―9号(1958年1月) | 野村 宣弘 |
秋本 清は8号、9号で編集局長(Managing Editor) | |
10号(1958年4月)―15号(1959年1月) | 飛山 将 |
中嶋 剛が10号―13号(1958年11月)で編集主幹(Executive Editor) | |
16号(1959年4月)―18号(1959年7月) | 篠塚 治男 |
16号以降編集主幹(Executive Editor)なくなる | |
19号(1959年9月)―22号(1959年12月) | 寺内 毅 |
甲斐下 良平が20号で編集局長(Managing Editor) | |
23号(1960年1月) | 飛山 将 |
上野 昌郁が編集局長(Managing Editor) | |
24号(1960年4月)―31号(1961年1月) | 清水 利政 |
32号(1961年4月)―39号(1961年12月) | 鈴木 幸雄 |
40号(1962年4月)―47号(1963年1月) | 大西 邦彰 |
48号(1963年4月)―55号(1964年1月) | 中楯 健二 |
56号(1964年4月)―61号(1965年1月) | 高橋 秀毅 |
62号(1965年4月)―67号(1966年1月) | 富森 秀直 |
68号(1966年4月)―70号(1966年6月) | 内田 恵夫 |
71号(1966年10月)―72号(1966年12月) | 豊島 棟克 |
73号(1967年4月)―78号(1968年1月) | 飛山 優 |
79号(1968年5月)―85号(1969年5月) | 安尾 芳典 |
86号(1969年7月)―88号(1970年2月) | 花田 政幸 |
89号(1970年7月)―90号(1970年12月) | 石川 純一 |
91号(1971年7月)―92号(1971年???) | 矢島 健太郎 |
93号(1972年7月)―94号(???) | 迫 修一 |
95号(1973年7月) | 星加 俊一 |
96号(1974年7月) | 坂井 文貴 |
97号(1976年9月)―98号(1977年7月) | 関口 晃 |
99号(1978年6月)―100号(1978年12月) | 原田 豊 |
101号(1979年6月)―102号(1980年4月) | 平井 省三 |
103号(1980年7月)―105号(1981年1月) | 管野 明彦 |
106号(1981年5月)-109号(1981年12月) | 皆川 敏行 |
110号(1982年5月)―112号(1982年11月) | 柏崎 幸三(旧姓 久保) |
113号(1983年5月)―115号(1983年11月) | 疋田 弘一 |
116号(1984年4月)―118号(1984年10月) | 徳本 栄一郎 |
119号(1985年5月)―120号(1986年1月) | 杉本 新 |
121号(1986年4月)―123号(1987年2月) | 菊池 雅之 |
124号(1987年4月)―125号(1988年2月) | 村瀬 一志 |
124号からマガジンスタイルに移行 | |
126号(1989年1月)―127号(1989年7月) | 松田 拓也 |
128号(1989年12月) | 平田 剛三 |
「英字新聞学会」は今号から会長のほかに委員長職(chairman)を設ける。現存するOB宛て文書には「部長」の表記も散見される。(初代委員長=湯前 成隆) 以降、委員長、編集長の順 |
|
129号(1990年4月) | 湯前 成隆、平田 剛三 |
130号(1990年7月)―132号(1991年4月) | 高橋 喜行、松田 瑞枝(旧姓 小林) |
133号(1991年9月)―134号(1992年5月) | 加藤 啓之、村井 陽 |
135号(1992年7月)―138号(1993年5月) | 一井 誠、柾木 泉(旧姓 大塚) |
139号(1993年7月)―141号(1994年4月) | 中村 努、杉本 美帆(旧姓 岩下) |
142号(1994年10月)―144号(1995年4月) | 難波 真太郎、杉本 美帆(旧姓 岩下) |
145号(1995年7月)―147号(1996年4月) | 藤野 信行、新井 隆史 |
148号(1997年4月) | 中原 洋介 |
中原は委員長・編集長を兼務 | |
149号(1997年11月1日) | 清水 英之、大熊 隆宏 |
(1997年4月1日付けで和英両文4ページの新入生歓迎特別号を発行。アドバイザー=里麻 静夫 教授、編集長、記者=新井 隆史、神田 誠司、竹下 拓也、藤野 信行、片山 大輔が分担) |
創刊号(1956年11月)―7号(1957年11月) | 担務者なし |
8号(1957年12月)―13号(1958年11月) | 木村 元昭 |
14号(1958年12月)―18号(1959年7月) | 伊沢 宏保、木村 元昭 |
19号(1959年9月)―22号(1959年12月) | 長谷川 和広 |
23号(1960年1月) | 伊沢 宏保 |
24号(1960年4月) | 橋本(名前不詳) |
25号(1960年5月)―31号(1961年1月) | 安藤 要吉 |
32号(1961年4月)―34号(1961年6月) | 鈴木 幸雄 |
35号(1961年9月)―39号(1962年1月) | 坂田 洋子 |
40号(1962年4月) | 大串 喜胤 |
41号(1962年5月) | 以降担務者なし |
93号(1972年7月)で橋本 順子が会計部長(Accounting Manager)を務めている |
創刊号(1956年11月)―13号(1958年11月) | 担務者なし |
14号(1958年12月)―17号(1959年5月) | 中上 たかし(漢字名不詳) |
18号(1959年7月)―23号(1960年1月) | 宮島 徹 |
24号(1960年4月)―39号(1962年1月) | 担務者なし |
40号(1962年4月)―47号(1963年1月) | 加藤 紘一 |
48号(1963年4月)―55号(1964年1月) | 担務者なし |
56号(1964年4月)―62号(1965年4月) | 山村 靖男 |
63号(1965年5月)―67号(1966年1月) | 伊藤 巌 |
68号(1966年4月)―74号(1967年6月) | 担務者なし |
75号(1967年7月) | 本堂 邦子、茂木 芳子 |
76号(1967年10月) | 本堂 邦子 |
77号(1967年11月) | 以降担務者なし |
創刊号(1956年11月) | 担務者なし |
2号(1956年12月) | 竹田 よしお(漢字名不詳) |
3号(1957年4月)―4号(1957年6月) | 中嶋 剛 |
5号(1957年7月)―9号(1958年1月) | 中嶋 剛、荒木 晋 |
10号(1958年4月)―15号(1959年1月) | 春日井 澄 |
16号(1959年4月)―18号(1959年7月) | 甲斐下 良平 |
19号(1959年9月) | 担務者なし |
20号(1959年11月)―22号(1959年12月) | 甲斐下 良平 |
23号(1960年1月)―24号(1960年4月) | 担務者なし |
25号(1960年5月) | 小沢 義一 |
26号(1960年6月)―39号(1962年1月) | 藤谷 浩司 |
40号(1962年4月) | 前田 彰 |
41号(1962年5月)―47号(1963年1月) | 大串 喜胤 |
48号(1963年4月)―55号(1964年1月) | 川崎 毅 |
56号(1964年4月)―61号(1965年1月) | 富森 秀直 |
62号(1965年4月)―67号(1966年1月) | 豊島 棟克 |
68号(1966年4月)―72号(1966年12月) | 忠地 和夫 |
73号(1967年4月)―78号(1968年1月) | 大河原 暢彦 |
79号(1968年5月) | 大坪 てつお(漢字名不詳) |
80号(1968年6月)―84号(1969年3月) | 馬場 昭明(副編集長を兼務) |
85号(1969年5月) | 知野 清一 |
86号(1969年7月)―90号(1969年12月) | 萩原 恵美子 |
91号(1971年7月) | 橘高(旧姓 佐竹)きよみ |
92号 | (見当たらず) |
93号(1972年7月) | 末永 哲夫 |
94号 | (見当たらず) |
95号(1973年7月) | 橋本 順子 |
96号(1974年7月) | 鈴木 たえ世 |
97号(1976年9月) | 長田 孝子 |
98号(1977年7月) | 原田 豊 |
99号(1978年6月)―102号(1980年4月) | 前田 義憲 |
103号(1980年7月)―105号(1981年1月) | 大楽 高嗣 |
106号(1981年5月)―110号(1982年5月) | 川村 虹子 |
111号(1982年7月) | 営業部長担務を廃止、経理部長担務を新設。 |
川村 虹子が112号(1982年11月)まで同ポストを担当。 | |
113号(1983年5月) | 以降、営業、経理担務を廃止。 |
創刊号(1956年11月)―2号(1956年12月) | 担務者なし |
3号(1967年4月) | 神谷 正二 |
4号(1957年6月)―7号(1957年11月) | 三崎 成、加藤 としひろ(漢字名不詳) |
8号(1957年12月)―9号(1958年1月) | 加藤 としひろ(漢字名不詳) |
10号(1958年4月)-11号(1958年6月) | 中根 辰朗 |
12号(1958年9月)-13号(1958年11月) | 中根 辰朗、清水 利政 |
14号(1958年12月)―15号(1959年1月) | 中根 辰朗、脇本 正勝、谷田 六郎 |
16号(1959年4月) | 中根 辰朗 |
17号(1959年5月) | 中根 辰朗 |
18号(1959年7月) | 森 毅 |
19号(1959年9月) | 脇本 正勝 |
20号(1959年11月) | 脇本 正勝 |
21号(1959年11月)―22号(1959年12月) | 脇本 正勝、平井 真 |
23号(1960年1月) | 中根 辰朗 |
24号(1960年4月)―39号(1962年1月) | 平井 真 |
40号(1962年4月)―45号(1962年11月) | 堀口 典恭 |
46号(1962年12月)―55号(1964年1月) | 北村 佳達 |
56号(1964年4月)―61号(1965年1月) | 古賀 哲次郎 |
62号(1965年4月)―67号(1966年1月) | 忠地 和夫 |
68号(1966年4月)―72号(1966年12月) | 飛山 優 |
73号(1967年4月)―78号(1968年1月) | 安尾 芳典 |
79号(1968年5月)-84号(1969年3月) | 知野 清一 |
85号(1969年5月)―96号(1974年7月) | 担務者なし |
97号(1976年9月) | 峰山 みきお(漢字名不詳) |
98号(1977年7月)―101号(1978年6月) | 三上 正一 |
102号(1980年4月) | 大江 たくじ(漢字名不詳) |
103号(1980年7月)―109号(1981年12月) | 担務者なし |
110号(1982年5月)―112号(1982年11月) | 野田 弘一 |
113号(1983年5月)―114号(1983年7月) | 中村 晃輔、野田 弘一 |
115号(1983年11月) | 野田 弘一 |
116号(1984年4月) | 以降担務者なし |
創刊号(1956年11月)―2号(1956年12月) | 桑田 泰久 |
3号(1957年)―4号(1957年6月) | 担当者なし |
5号(1957年7月)―7号(1957年11月) | 野村 宜弘 |
8号(1957年12月)―9号(1958年1月) | 飛山 将 |
10号(1958年4月)―13号(1958年11月) | 芳賀 嶺夫 |
14号(1958年12月)―19号(1959年9月) | 担当者なし |
20号(1959年11月)―22号(1959年12月) | 篠塚 治男 |
23号(1960年1月) | 荒木 晋 |
24号(1960年4月)―29号(1960年11月) | 篠塚 治男 |
29号 | 以降はコピーリーダー不在。 |
ただし29号から31号までの期間はコピーリーダーに代わる役割として編集長のもとにNews editor, Feature editor, Art editor, Sports editorが機能を分担した。32号(1961年4月)以降はAssociate editor(副編集長)の役割が新設され、この制度が後年まで随時続いた。 | |
歴代の副編集長は以下の通り。 楠美 憲章、村岡 嘉紀、原田(旧姓 清野)耕一、亀谷 康俊、北村 佳達、古賀 哲次郎、伊藤 巌、豊島 棟克、安井 和広、田端 正典、鎌田 仁志、馬場 照明、榎本 雅幸、早船 雅文、中村 隆文 |
創刊号(1956年11月) | 渡辺 幸吉 教授 | 英語学習についてのアドバイス |
3・4・6号(1967年4~9月) | 広瀬 敬一 教授 | 欧米旅行雑感(3回シリーズ) |
7号(1957年11月) | バーネット夫人 ESS英会話講師 | ESSの姿、英語の必要性について |
7号(1957年11月) | 小松 東三郎 事務総長 | 中央大学の将来 |
7号(1957年11月) | 川原 次吉郎 教授 | 政治科学研究と具体的事実の認識 |
8号(1957年12月) | ヒッチマン夫人 ESS英会話講師 | 私の日本体験、ESS部員に寄せて |
8号(1957年12月) | 武藤 光朗 教授 | 経済学理論の倫理を求めて |
13号(1958年11月=白門ヘラルド2周年特集号) | ロス夫人 ESS英会話講師 | 理解すること、理解されること |
13号(1958年11月=白門ヘラルド2周年特集号) | 野村 宜弘 氏 (白門ヘラルド元編集長、時事通信社に入社) | 新米ジャーナリストが思うこと |
16号(1959年4月) | 須磨 弥吉郎 常任理事 | 私の見るラテンアメリカ諸国 |
16号(1959年4月) | 野村 宜弘 氏 (白門ヘラルド元編集長、時事通信社に入社) | 学生生活を振り返って |
18号(1959年7月) | 内片 孫一 教授 | パイオニア精神が社会への献身に必要 |
19号(1959年9月) | 小松 東三郎 事務総長 | アメリカ訪問の印象 |
20号(1959年11月) | 中島 申祥 氏 (朝日イブニング紙記者、ヘラルド・アドバイザー=掲載時は匿名) | 賛否呼ぶローレンス事件(英国の小説家D・H・ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」の伊藤整による翻訳をめぐる法廷闘争を扱ったもの) |
24号(1960年4月) | 岡田 峻 教授 | ガラパゴス諸島への51日間の旅 |
25号(1960年5月) | 桑木 務 教授 | 諸大学の現況 |
26号(1960年6月) | 広瀬 敬一 教授 | エレクトロニクスの将来 |
26号(1960年6月) | 土屋 六郎 助教授 | 日本における貿易自由化 |
27・28号(1960年9月~10月) | 小川 浩八郎 助教授 | 学生運動について(2回シリーズ) |
27号(1960年9月) | 高橋 康成 助教授 | T.S.エリオット - 有罪か無罪か? |
28号(1960年11月) | 宮本 陽吉 助教授 | アメリカをどうイメージするか? |
30号(1960年12月) | 武藤 光朗 教授 | 民主主義と日本人のメンタリティー |
31号(1961年1月) | 関野 只一 教授 | ドル不足とドル不安 |
33・35号(1961年5月~9月) | 関野 只一 教授 | 欧州共同市場・自由貿易圏(3回シリーズ) |
33号(1961年5月) | 吉田 精一 教授 | プライバシーと文学 |
33号(1961年5月) | 小堀 憲助 教授 | プライバシーと法律 |
33号(1961年5月) | 柴田 甲子郎 学長 | 白門ヘラルド5周年に寄せて |
33号(1961年5月) | 内片 孫一 教授 | 白門ヘラルドとの5年間 |
34号(1961年6月) | 三木 圭一、関 正子 北京卓球世界選手権大会日本代表 | 26回卓球世界選手権と中国におけるスポーツ |
34号(1961年6月) | 小野 秀雄 教授 | 学生新聞と学生ジャーナリズム(白門ヘラルド5周年記念公演要旨) |
35号(1961年9月) | 佐藤 智雄 教授 | 激増する青少年犯罪問題 |
36号(1961年10月) | 小堀 憲助 教授 | 中大におけるIACC設立の意義(IACC:International Academic Cooperation Committee 国際学術協力委員会) |
37号(1961年11月) | 新井 正夫 助教授 | 日本の高度経済成長についてのメモ |
37号(1961年11月) | 樺 俊雄 教授 | 大衆社会とマスコミ |
37号(1961年11月) | 高橋 健二 教授 | この国におけるドイツ文学 |
39号(1962年1月) | 飛山 将 氏 (白門ヘラルド元編集長、時事通信社ロンドン特派員=掲載時は匿名) | ロンドン便り、最近の英国事情 |
41号(1962年4月) | 村田 喜代治 教授 | 東京―この大都市をどう扱うか? |
41号(1962年4月) | 下村 康正 教授(ドイツ・フライブルク大学で刑法を研究) | ドイツの学生はみな紳士 |
42号(1962年6月) | 宮本 陽吉 助教授 | ノーベル文学賞の意義 |
41号(1962年4月) | 久松 栄一郎 教授(セイロン大学で開催の第2回学生の健康に関するアジア会議に出席) | セイロン大学を訪れて |
43号(1962年9月) | 武藤 光朗 教授(オスロ近郊で開催の社会主義インターナショナル評議会会合に出席) | オスロ宣言についての感想 |
43号(1962年9月) | 金子 文六 教授(ベニスで開催の民事訴訟法に関する国際学会に出席後欧州各国を視察) | コミュニティー形成に向う欧州 |
45号(1962年11月) | 土屋 六郎 教授 | 貿易自由化と日本経済 |
46号(1962年12月) | 長谷川 広 教授 | 現代日本人の特質、生活観 |
46号(1962年12月) | 朝川 伸夫 教授 | 現代日本人の特質、法律観 |
46号(1962年12月) | 飛山 将 氏 (白門ヘラルド元編集長、時事通信社ロンドン特派員=掲載時は匿名) | 輝く歴史を誇るケンブリッジ大学 |
47号(1963年1月) | 飛山 将 氏 (白門ヘラルド元編集長、時事通信社ロンドン特派員=掲載時は匿名) | 英国議会小史 |
48号(1963年4月) | 武藤 光朗 教授 | 日本経済近代化に関する分析 |
48号(1963年4月) | 安川 貞夫 教授 | 新入生の学生生活についての助言 |
49号(1963年5月) | 中島 申祥 氏 (朝日イブニング紙記者、白門ヘラルド・アドバイザー) | 英語学習についてのアドバイス |
50号(1963年6月) | 戸田 修三 教授 | 政党への献金 |
50号(1963年6月) | 内片 孫一 教授 | 英語は文化の伝え |
50号(1963年6月) | 吉田 精一 教授 | 日本文学における戦後の激変 |
50号(1963年6月) | 桑田 三郎 教授(1962年ハンブルク大学で国際私法を研究) | ドイツ人のユニークな考え方 |
51号(1963年9月) | 菅野 芳彦 助教授 | 日本における家庭教育の必要性 |
52号(1963年10月) | 那須 宗一 教授 | 日本における高齢者の生活条件 |
53号(1963年11月) | 世良 正利 教授 | 日本人の精神構造 - 歴史的考察 |
53号(1963年11月) | 水野 亮 教授 | パリは古本のメッカ |
54号(1963年12月) | 細野 日出男 教授 | 交通事故をいかに防ぐか? |
54号(1963年12月) | 高橋 健二 教授 | グリム兄弟生誕100年祭に参加して |
56号(1964年4月) | 島崎 晴哉 教授 | 労務災害防止の徹底を |
58号(1964年6月) | 三宅 武雄 教授 | 開放経済下の企業合併 |
58号(1964年6月) | 伊津野 正 教授 | オリンピックはどうあるべきか? スポーツはレジャーとして楽しめ |
59号(1964年9月) | 金子 文六 教授 | 再検討を要する司法試験制度 |
60号(1964年10月) | 小堀 憲助 教授 | 国際主義と地域主義 |
60号(1964年10月) | 中大社会心理学研究会の報告(要旨) | 大学と学生に関する一教授の視点 |
61号(1965年1月) | 服部 正夫 教授 | 望まれる体育授業の改善 |
62号(1965年4月) | 津久井 佐喜男 教授 | 社会不適応への答え |
63号(1965年5月) | 経塚 作太郎 教授 | 第二国連問題 |
64号(1965年6月) | 渥美 東洋 助教授 | 日本における弁護士活動の限界 |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 片山 金章 教授 | 民主社会と法の精神 |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 武藤 光朗 教授 | 福祉国家への道 |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 岩田 巌雄 教授 | 日本企業の資本構成 |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 清野 暢一郎 教授 | 近代アメリカ演劇について |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 岸上 冬彦 教授 | 地震にどう向き合うか? |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 下村 康正 教授 | 政府助成を必要とする私学 |
65号(1965年10月 = 創立80周年記念特集号) | 渡辺 幸吉 教授 | ビジネス英語のために |
66号(1965年11月) | 高柳 暁 助教授 | 終身雇用の問題点 |
67号(1966年1月) | 桂 寿一 教授 | 生活で求められる哲学的思考 |
68号(1966年4月) | 八木 国之 教授 | 予定される青少年法改正 |
69号(1966年5月) | 菅野 芳彦 助教授 | 文部省、省令改定を検討 |
70号(1966年6月) | 松本 正徳 助教授 | 産業再編成の進展 |
71号(1966年10月) | 中島 申祥 氏 (朝日イブニング・ニュース紙記者、ヘラルド・アドバイザー) | 10年間の想い出(ヘラルド創刊10周年に寄せて) |
71号(1966年10月) | 木村 恒行 教授 | 産業公害の問題点 |
71号(1966年10月) | 佐竹 寛 教授 | プリンストン大学での生活 |
72号(1966年12月) | 多賀 秋五郎 教授 | 5年制大学は妥当か? |
73号(1967年4月) | 佐竹 寛 教授 | 地方自治のあるべき姿 |
74号(1967年6月) | 鮎沢 成男 助教授 | 社会学としてのビジネス・マネージメント |
75号(1967年7月) | 秋元 和雄 教授 | 原子力と将来の平和活用 |
76号(1967年10月) | 岩崎 昶 特別講師 | 現代映画にチャンスはあるか? |
77号(1967年11月) | 下村 康正 教授 | 死刑廃止の妥当性 |
78号(1968年1月) | 五井 一雄 教授 | 冷戦と日本の経済的立場 |
80号(1968年10月) | 中島 申祥 氏 (朝日イブニング・ニュース紙記者、ヘラルド・アドバイザー) | 見解分かれる自衛隊の合憲性 |
80号(1978年6月) | 江川 潤 特別講師 | 変革を求められる議会政治制度 |
81号(1968年10月) | 佐藤 由須計 教授 | チェコ問題に関する一教授の視点 |
82号(1968年12月) | 磯田 光一 助教授 | アメリカ化した日本における現代文学 |
82号(1968年11月) | 中島 申祥 氏 (朝日イブニング・ニュース紙記者、ヘラルド・アドバイザー) | 安保条約延長で割れる見解 |
(白門ヘラルドは1969年から1975年にかけて内外からの寄稿を掲載していない。長期化した学園紛争の影響とみられる。) | ||
100号(1978年12月) | 塚本 重頼 教授 | 我が国労働法の基本理念 |
111号(1982年7月) | 滝田 賢治 教授 | 欧州を揺るがす限定核戦争の脅威 |
(以降、中大関係者による寄稿はない) |
11号(1958年6月) | アーノルド・バーネット 氏 在日駐留米軍スターズ・アンド・ストライプス紙編集者 | アメリカ人の見る世界 |
14号(1958年12月) | アルベルト・デ・ホヤ 氏 マニラ大学教授 | フィリピンの学生運動 |
17号(1959年5月) | ロバート・ブローチャー 氏 ハーバード大学教授、フルブライトで来日、中大で講師 | 日本と米国の商法 |
18号(1959年7月) | 郷司 浩平 氏 日本生産性本部専務理事 | 日本経済発展に資する中小企業 |
20号(1959年11月) | ジョージ・L・デュカ 氏 国際ペンクラブ米国支部メンバー | 共産主義と自由世界 |
25号(1960年5月) | ジョージ・H・シークス 氏 日本在住の米国人浮世絵収集家 | 日本の古典芸術、浮世絵 |
32号(1961年4月) | 木内 信胤 氏 世界経済調査会理事長 | 中国承認の是非、反対論 |
32号(1961年4月) | 蠟山 政道 氏 お茶の水女子大前学長 | 中国承認の是非、賛成論 |
37号(1961年11月) | エドウィン・O・ライシャワー 氏 駐日米国大使 | 米大使、内外情勢を語る(中大での講演要旨) |
38号(1961年12月) | E・ブライス・ステーソン 氏 ミシガン・ロー・スクール名誉学長 | 放射能被爆者への法的責任 |
39号(1962年1月) | 藤山 愛一郎 氏 経済企画庁長官 | 今年の日本経済見通し(中大での講演要旨) |
39号(1962年1月) | 福岡 誠 氏 リーダース・ダイジェスト日本語版編集長 | 国際ニュース市場としての東京 |
40号(1962年4月) | 島田 巽 氏 朝日新聞記者、ジャパン・クオータリー誌編集委員会メンバー | 不正確な外国教科書の日本記述 |
42号(1962年6月) | ウリ・レビン 氏 世界一周旅行中、日本滞在中のイスラエル人青年 | キブツ紹介、イスラエルのユニークな農場制度 |
42号(1962年6月) | ディーター・モルデンハウワー 氏 世界一周自転車旅行中、日本滞在中のドイツ人青年 | 若者よ、世界を旅せよ |
42号(1962年6月) | 佐藤 功 氏 成蹊大学教授 | 憲法第9条特集記事、改正反対 |
42号(1962年6月) | 愛川 重義 氏 読売新聞副主筆 | 憲法第9条特集記事、改正に条件付き賛成 |
42号(1962年6月) | 広瀬 久忠 氏 内閣憲法調査会委員 | 憲法第9条特集記事、改正賛成 |
45号(1962年11月) | V・C・ビスワナタン 氏 マドラス大学前学長 | MRA(道徳再武装運動)が世界を戦争から救う |
46号(1962年12月) | 堀 秀彦 氏 東洋大学教授 | 現代の日本人気質、宗教観 |
47号(1963年1月) | アーネスト・ヤング 氏 駐日米大使特別補佐官 | 米国の高等教育が直面する諸問題 |
50号(1963年6月) | フィリップ・ノエルベーカー 氏 1959年ノーベル平和賞受賞者 | 特集:世界平和をいかに保障するか、軍縮が不可欠 |
50号(1963年6月) | バートランド・ラッセル 卿 1950年ノーベル文学賞受賞者 | 特集:世界平和をいかに保障するか、根絶政策を止めよ |
50号(1963年6月) | ボイド・オール 卿 1949年ノーベル平和賞受賞者 | 特集:世界平和をいかに保障するか、福祉のために声を合わせよう |
50号(1963年6月) | 蠟山 政道 氏 お茶の水女子大前学長 | 特集:世界平和をいかに保障するか、国連の強化 |
50号(1963年6月) | ジョン・デズモンド・バーナル 氏 1953年レーニン平和賞受賞者 | 特集:世界平和をいかに保障するか、望まれる国際的結束 |
50号(1963年6月) | ライナス・ポーリング 博士 1954年ノーベル化学賞受賞者 | 特集:世界平和をいかに保障するか、核実験禁止協定を急げ |
50号(1963年6月) | 亀井 勝一郎 氏 文芸評論家 | 現代と人格形成 |
50号(1963年6月) | バイオレット・ウオーカー 氏 米雑誌記者 | アメリカの大学新聞について |
51号(1963年9月) | 小沢 清子 氏 日本原水協運動のパイオニアのひとり | 日本における平和運動の始まり |
52号(1963年10月) | 藤山 愛一郎 氏 自民党総務会長 | 抜本的改革が必要な日本経済(中大での講演要旨) |
55号(1964年1月) | 都留 重人 氏 一ツ橋大学教授 | 豊かな社会をどう築くか |
56号(1964年4月) | デービッド・F・ケーバーズ 氏 ハーバード・ロー・スクール教授 | 法律研究で日米の連携が必要 |
57号(1964年5月) | 林 健太郎 氏 東京大学教授 | 物質主義、精神主義の統合が必要 |
58号(1964年6月) | 東 龍太郎 氏 東京都知事 | 特集:オリンピックのあるべき姿、オリンピックは文化遺産 |
58号(1964年6月) | アヴェリー・ブランデージ 氏 国際オリンピック委員会会長 | 特集:オリンピックのあるべき姿、スポーツが人間を造る |
58号(1964年6月) | オット・マイヤー 氏 国際オリンピック委員会理事長 | 特集:オリンピックのあるべき姿、オリンピックの規則と原則 |
58号(1964年6月) | 大島 健吉 氏 岸記念館東京五輪選手強化センター企画部長 | 特集:オリンピックのあるべき姿、ヘラルドとのインタビュー |
65号(1965年10月) | 高坂 正顕 氏 東京学芸大学長 | 政府助成を必要とする私立大学 |
65号(1965年10月) | バートランド・ラッセル 卿 1950年ノーベル文学賞受賞者 | ベトナム戦争は犯罪行為 |
65号(1965年10月) | ボイド・オール 卿 1949年ノーベル平和賞受賞者 | 世界平和における日本の役割 |
65号(1965年10月) | デービッド・リースマン 氏 ハーバード大学教授 | ベトナム政策に関する一米学者の見解 |
71号(1966年10月) | 水上 勉 氏 作家 | 社会福祉はなぜかくも冷血なのか? |
82号(1968年11月) | 稲葉 稔 氏 SENAニュース紙記者=SENAニュースは学生英字新聞協会機関紙 | 大学管理における学生の役割 |
82号(1968年11月) | バートランド・ラッセル 卿 1950年ノーベル文学賞受賞者 | アメリカに訴える |
113号(1983年5月) | 渡辺 珠雄 氏 東京大学講師 | 経済メカニズムの強化 |
白門ヘラルドは創刊1周年記念特集の第7号(1957年11月14日)で「5学部の教授紹介」をした。ついで第8号(同年12月)から各学部の“名物”教授を紹介する「Professor’s Profile」を開始した。このシリーズは1966年12月発行の72号まで続いた。第7号で紹介した教授、助教授、講師は以下の通り。(肩書きは掲載時)
<法学部> | ||||||
牧野 英一 博士 | 佐藤 功 教授 | 佐藤 達夫 講師 | 杉村 章三郎 教授 | 吉田 常次郎 教授 | 市川 秀雄 教授 | 樫田 忠美 教授 |
花井 忠 教授 | 田中 萬一 教授 | 下村 康正 助教授 | 吉田 久 教授 | 中島 弘道 教授 | 片山 金章 教授 | 川村 泰啓 助教授 |
橋本 公亘 助教授 | 田中 誠二 教授 | 野津 務 教授 | 升本 喜兵衛 教授 | 団藤 重光 教授 | 阿部 文二郎 教授 | 村松 俊夫 講師 |
兼子 一・助教授 | 守屋 善輝 教授 | 稲葉 修 教授 | 田村 幸作 博士 | 川原 次吉郎 教授 | 原田 鋼 教授 | 小松 春雄 教授 |
<経済学部> | ||||||
丹後 愛二郎 教授 | 竹内 健二 教授 | 土方 成美 博士 | 青木 得三 博士 | 山口 忠夫 博士 | 長谷川 謙治 教授 | 長 守善 教授 |
中川 友長 教授 | 南 亮三郎 教授 | 武藤 光朗 教授 | 波多野 鼎 博士 | |||
<商学部> | ||||||
上林 正矩 教授 | 松浦 要 教授 | 太田 哲三 教授 | 井上 達雄 教授 | 渡辺 幸吉 教授 | 和田 清 教授 | 五十嵐 喬 教授 |
中西 旭 教授 | 猪間 驥一 教授 | 細野 日出男 教授 | 麓 健一 教授 | 佐々木 芳郎 講師 | 高木 幸次郎 教授 | 大島 藤太郎 教授 |
石原 忠男 教授 | 岩尾 裕純 教授 | 川尻 武 教授 | ||||
<文学部> | ||||||
森本 治吉 教授 | 中村 通夫 教授 | 安川 定男 助教授 | 吉田 精一 教授 | 布施 欽吾 教授 | 松浦 一 教授 | 井手 義行 教授 |
伊津野 正・助教授 | 瀬尾 裕 教授 | 野崎 孝・助教授 | 新津 米蔵 教授 | 尾上 政次 教授 | 吹田 順助・教授 | 橋本 文夫 教授 |
高橋 健二 教授 | 辰野 隆 教授 | 秋山 春夫 教授 | 田辺 貞之助・教授 | 川口 篤 教授 | 長谷 茂 教授 | 鈴木 信太郎 教授 |
松本 重彦 教授 | 喜田 新六 教授 | 鈴木 俊・教授 | 島崎 昌助・教授 | 田坂 興道 教授 | 鳥山 喜一 講師 | 伊藤 吉之助・教授 |
田中 於菟弥 教授 | 今泉 三良 教授 | |||||
<工学部> | ||||||
横井 増治 教授 | 岩崎 富久 教授 | 内山 実 教授 | 岸上 冬彦 講師 | 高橋 竜太郎 教授 | 浅居 徹太郎 教授 | 谷下 市松 教授 |
西村 源六郎 教授 |
第8号以降「Professor’s Profile」で取り上げた教授、助教授、講師は以下の通り(肩書きは掲載時)
8号(1957年12月) | バーノン・ブラウン 講師 |
9号(1958年1月) | 内片 孫一 教授 |
10号(1958年4月) | 奥田 峻 教授 |
11号(1958年6月) | 百瀬 泉 教授 |
12号(1958年9月) | 柴田 甲子郎 学長 |
13号(1958年11月) | 片山 金章 副学長 |
14号(1958年12月) | 升本 喜兵衛 教授 |
15号(1959年1月) | 中川 友長 教授 |
16号(1959年4月) | 吹田 純介 教授 |
17号(1959年5月) | 大間知 篤三 教授 |
18号(1959年7月) | 佐藤 富枝 教授 |
19号(1959年9月) | 三宅 武雄 助教授 |
20号(1959年11月) | 小松 春雄 教授 |
22号(1959年12月) | 市川 英男 教授 |
24号(1960年4月) | 久松 栄一郎 教授 |
25号(1960年5月) | 桑木 務 教授 |
26号(1960年6月) | 兼松 泰一 助教授 |
27号(1960年9月) | 塚本 重頼 教授 |
28号(1960年11月) | 辰野 隆 教授 |
30号(1960年12月) | 森 清 教授 |
32号(1961年4月) | 田村 幸作 教授 |
33号(1961年5月) | 伊津野 正 教授 |
34号(1961年6月) | 青木 得三 教授 |
35号(1961年9月) | 土屋 六郎・助教授 |
36号(1961年10月) | 山口 忠夫 教授 |
37号(1961年11月) | 広瀬 敬一 教授 |
38号(1961年12月) | 布施 欽吾 教授 |
39号(1962年1月) | 橋本 公亘 教授 |
40号(1962年4月) | 佐藤 智雄 教授 |
41号(1962年5月) | 桃沢 力 教授 |
42号(1962年6月) | 原田 鋼 教授 |
43号(1962年9月) | 細野 日出男 教授 |
44号(1962年10月) | 花井 忠 教授 |
45号(1962年11月) | 松本 重彦 教授 |
46号(1962年12月) | 鈴木 信太郎 教授 |
47号(1963年1月) | 井上 達雄 教授 |
48号(1963年4月) | 朝川 伸夫 教授 |
49号(1963年5月) | 南 亮三郎 教授 |
50号(1963年6月) | 吉田 健一 教授 |
51号(1963年9月) | 外間 寛・助教授 |
52号(1963年10月) | 相良 正利 教授 |
53号(1963年11月) | 下村 康正 教授 |
54号(1963年12月) | 丹後 愛二郎 教授 |
55号(1964年1月) | 中野 弘 教授 |
56号(1964年4月) | 戸田 修三 教授 |
57号(1964年5月) | 柳沢 義男 教授 |
58号(1964年6月) | 横井 芳弘 教授 |
59号(1964年9月) | 桑田 三郎 教授 |
60号(1964年10月) | 田辺 貞之助・教授 |
61号(1965年1月) | 数江 教一 教授 |
62号(1965年4月) | 那須 宗一 教授 |
63号(1965年5月) | 安川 定男 教授 |
64号(1965年6月) | 小川 浩八郎 教授 |
65号(1965年10月) | 浅川 淳 教授 |
66号(1965年11月) | 高橋 健二 教授 |
67号(1966年1月) | 小堀 憲助・教授 |
68号(1966年4月) | 久松 栄一郎 教授 |
69号(1966年5月) | 木川 統一郎 教授 |
70号(1966年6月) | 桂 寿一 教授 |
71号(1966年10月) | 林 泰造 教授 |
72号(1966年12月) | 堀内 節 教授 |
(「Professor’s Profile」は72号で完了) |
白門ヘラルドは第3号(1957年4月)から主に米国の高校、短大、大学の学生新聞との紙面交換を始め、記事の要旨もしくは全文を定期的に紹介した。対象となった新聞は以下の通り。(新聞名の定冠詞は省略)
デーリー・トロージャン (南カリフォルニア大学/カリフォルニア州)
シカゴ・マルーン (シカゴ大学/イリノイ州)
スペクテーター (シアトル大学/ワシントン州)
PCCクロニクル (パサデナ・シティー・カレッジ/カリフォルニア州)
オクシデンタル (オクシデンタル・カレッジ/カリフォルニア州)
ブロードキャスト (モデスト高校/カリフォルニア州)
パーヂュー・エクスポネント (パーヂュー大学/インディアナ州)
ホイートン・レコード (ホイートン・カレッジ/イリノイ州)
ミシガン・デーリー (ミシガン大学/ミシガン州)
スタンフォード・デーリー (スタンフォード大学/カリフォルニア州)
デーリー・テキサン (テキサス大学/テキサス州)
ミラー (北コロラド大学/コロラド州)
サランカ (ニューサウスウェールズ大学/オーストラリア)
BCニュース (ボーリング・グリーン州立大学/イリノイ州)
ダイアモンドバック (メリーランド大学/メリーランド州)
ステート・ニューズ (ミシガン州立大学/ミシガン州)
ケンタッキー・カーネル (ケンタッキー大学/ケンタッキー州)
ボールドウィン・ウオーレス・エクスポネント (ボールドウィン・ウオーレス・カレッジ/オハイオ州)
デーリー・エジプシャン (南イリノイ大学/イリノイ州)
浅本 誠 | 浅本 洋子 | 石井 武雄 | 伊藤 巌 | 大西 邦彰 | 大西 恒彦 | 柏崎 幸三 | 川崎 毅 | 菊池 雅之 |
北村 佳達 | 桑田 泰久 | 後藤 真一 | 迫 修一 | 島田 直治 | 杉本 新 | 杉本 一重 | 鈴木 幸雄 | 高橋 哲郎 |
高橋 秀毅 | 田崎 史郎 | 団野 太 | 豊島 棟克 | 寺内 毅 | 富森 秀直 | 中楯 健二 | 中村 隆二 | 西沢 幸男 |
長谷川 和廣 | 花田 政幸 | 早船 雅文 | 疋田 弘一 | 飛山 将 | 飛山 優 | 星加 俊一 | 星野 貴 | 松田 拓也 |
皆川 敏行 | 宮島 徹 | 本橋 健 | 村瀬 一志 | 安尾 芳典 | 山本 修一 | 湯前 成隆 |